昭和43年11月07日 朝の御理解
御理解とありますね。御理解てね、この御理解ここんところを頂くんですよ。ですから私、例えば御理解の中に御理解第3節でしたかね。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと、こうありますね。その理解申して聞かせと仰る、その理解という事に私共が頂く方の側が御の字をつける訳ですね。御理解と御理解と。ね、神様は理解を申して聞かせられる。それを頂く方の側である私共がこれに御の字をつけて頂く、と。
本当にこの頂くという精神なんですね。ですから私、その御理解を頂かせてもらう者がです、本当の御理解に、「御」理解にならせてもらう頂き方、もうそれをですね、それを御理解8節の中から、まあこう頂いてみたいと思う。ですから今日の御理解は例えばこの字句にこだわらずに、頂く訳ですね。ですから言うならば、その子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ。不信心者ほど神が可愛い、信心しておかげを受けてくれよと、こうある。
ですからこれは、子供の中に屑の子があればと、次の不信心者とこの二行目、一行目と二行目の間中を頂くんです。ね、一行目と二行目のあいなかを頂くんです、御理解というものは。ここに表れとる字じゃない、文句じゃない。ね、一行と二行の間中、二行と三行の間中。ね、この字句に、またこの言葉にですね、言葉の裏の裏、だからこそ御理解なのです。意味が分かるでしょうかね。
いわゆる(前外の前教?)と、桂先生が言っておられましたね。言葉以外の言葉と、ね。または、願いの理といったような風に言うてある。一つの理論といったようなもの、の向こうにある理論なのである。だからこれはもう心で頂き止めて行く以外にない。お互いの信心によって頂き止めて行く以外にないのですね。例えば、昨日は御理解5節でしたですかね、頂きました。御理解の中にあの、片便に、ね。
今まではどこへ参っても片便の願い捨てであろうがと。ね、神が物を言うてくれるところはなかったろうがというような御理解でございましたね。私は昨日初めてこの御理解5節に対する、いわゆるその言外の言ですよね。この中にそのここの中に裏に教えようとしておられる物に触れた気がしたんです。皆さんも初めてだったでしょう、ああいう御理解。ははぁ他の信心なみんな片便の願い捨てだな。
金光様の信心な有り難いね。片便じゃなくて両便往復。ね、行き戻りおかげが頂いて行けれる信心だという風に思うておった所が、ね、昨日の御理解を頂きますと、本当に金光様の御信心を頂いておる者でも、やはりの片便のおかげしか頂いてなかったんだと気付かせてもらった。ただ一心を立てれば和賀心に神がござるからおかげになるのじゃと。ね、一心を立てる一生懸命拝む一生懸命参る、一生懸命御用させてもらう。ね、
それだけでおかげを受けておるなら、やっぱ片便なのですよ。片便的おかげだった訳なの、ね。金光大神の言われる事に背かぬようにと。そこんところを頂いて初めて、ね。かいお願いしただけではなくて、そのかいの物を頂いて帰る、いわゆる往復的なおかげになってくるんだと、いう昨日御理解をこの御理解第5節の中を頂きましたんですね。愈々もう企画をなさる方達が遅うまでやっておりましたから。
11時ちょっと過ぎまで先生方2~3人、その場で色々お話させて頂いたんですけれども。私は不思議でたまらん事がある。こうして朝晩御理解を説かせて頂くが、皆が本当に有り難そうに頂いておられる。ところが私自身頂いてみてはあ愈々その、有り難さというか深さというか、こう分からせて頂くんだけれども、皆さんは本当に有り難そうにしておられるが分かられるじゃろうかと、分かったじゃろうか。
と言うてまあ時々聞いてみると分かっていない。なぜ質問して来ないのだろうか。と言うて、言う様な話でしたですがね。所がやはりお互いの信心がですね、やはり本当にそれを深められるという事は、その信心を頂いて行くそれを行じていく。行じて行きよるうちに分からん所が出てくるんですよね実は。これは例えば何の稽古でも同じです、ね。稽古してくる、ね。
確かにその時には覚えて帰って来たけれども、家でそれをまた復習をしてみると、あら、ここも分かっとらじゃった、ここはどげんじゃったじゃろうかと思うて、分からんところが出けてくる。そこでそれをまた明くる日、ここはどげんじゃったでしょうかと繰り返し、繰り返し尋ねたり直してもらったりして、まあようやくそれが自分の物になっていくようにですね。
朝晩の御理解を頂いて、これが本当に行の上に現して行きよったら分からんところが出てくるハズなんだ。出てこないところを見ると、やっぱり金光大神の言う事に背いておるような気がするねと言うて、まあ話した事でした。結局分からんところが、分からんというところすらが分かっていないのだと。ただお話を聞いて頂いて、何とはなしに有り難い。何とはなしにそうだ、そうだと合点して聞きよる。
けれども本当の合点ではなく、本当の自分の物になっていない。いや本当の物になるための行をしよらん。そげん実行しよらん。だから、分からんところすらが分からんのではなかろうかと。私は、まあ感じ、まあそんな事を話した事でございます、ね。特に私今日は神様の御理解8節を、「 」ものですね。御理解としての、まあ一番、言うならば間違いやすいところ。いわゆるその、行と行との間。ね、
行というのは一行二行の行ですよ、ね。その何もないところなんです、行と行の間ですから。言うなら深さなんです、その御教えの広さなんです。言葉には出ていないところの物ですから限りがない。ね、そこんところを分からせて頂かないと、この言葉だけのところに、を頂いておると間違うとこある。お互い神様に愛されたい、ね、神様に可愛がって頂きたい。ここには不信心者ほど神は可愛いと言うておられます。
不信心者ほど神は可愛い。だからやっぱもう毎日参るよりか時々参って、もう信心になるとごたっとの方が、神様からかえって可愛がられるじゃなかじゃろうか、という風にも頂けますですね。不信心熱心な信心をしておる者は可愛がられない、という事にもなるんですね。不信心者ほど神は可愛い。昨日一昨日です。ある方がお参りをして参り、ある方と言えば「やすふじ」さんですね。
月に何回かお参りして見えます、飯塚のまた田舎の方です。この、あちらではその、お母さんですね、姑親。お婆さんが、もう長年、お寺さんの和尚さんを来てもらって、朋まわりでですね、まあ十人か、まあ何人かの人達が、まあお婆さん達が集まってその、まあ大幣が立つというそうですね。あの、まあ坊さんを中心に、まあ信心の共励といったような事をなさる訳なんです。
ほんでいよいよ仏様にお供えをさせて頂いたり、お茶請けども作って、まあお年寄りを楽しんでいる訳なんです。その方がその、先日その坊様が、来なさらんで良い日に、ある日、別に用もないのに、まあぶらっと出てみえられた。あれはあの、仏教大学を出た、中々インテリな坊さんらしいですね、お話も上手。そこでその、「やすふじ」さんな、サッパリしたお方ですから、まあざっくばらんに話されたんです。
実はあの、和尚様、私はご承知のように金光様の御信心を頂くんですけれども、本当にその教えによって助けられておる。そして自分ながら少しずつではあるけれども変わらせて頂きよる、またそして変わろうと思いよる。ところがあの、家のおばあちゃん達のグループの、もう長年続いておるのが見ておると、一つも助かって行きよんなさらん、変わって行きよんなさらん。
これはあのお坊様、貴方は宗教家として少しは考えなさらにゃいけませんよち言うてから、その話した。そりゃあ「やすふじ?」さん無理ですよ。私自身が助かっとらんもん、坊主が助かっとらんもんばアンタ、そげな信者が助かる事が、助けるてなんて、それは出来るハズがないじゃないのち、と言うてまあ、話されたとこう言うのです、ね。そしてその、お婆さんは中々お話を頂いとられるから高尚な事を言われます。
お婆ちゃん、金光様じゃこう教えられる。こっちのテープを借りて聞いて、親先生はこう言うておられる、ああ言うておられるとこう言うけども、仏教の方がね仏教の方がね、ただもう南無阿弥陀仏と言やあ助かる。お浄土のお迎えを頂く事が出来る、もう南無阿弥陀仏だけで助かる、ね。そして例えばね、それこそ悪人においておや、善人ですら助かっておるのじゃから。
悪人なら尚助かるって上人様は言うてござるけん、アンタがそげなん事言うち聞かせてんよかち言うてから、言いなさるそうです。教えの恐らくだから親鸞の言葉ですから、親鸞あの、真宗でしょうねきっと、そういう事を言われるとです。ね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏だけを唱えておければどんなに罪深いものでも、もうその場で助かる事が出来るんだと、仏様の教えというのが。と、
例えばこれはあの、御理解第8節によく似てくる、ね。屑の子ほど可愛いと仰るから、ね、不信心者ほど可愛いと仰るから、ね、あんまり熱心に信心しよる、神様から可愛がられん、可愛がられんごとなると言ったような受け方しかしてない。所謂この言葉とか字だけに、ね、文句だけに捕らわれるとそういう事になるのです。勿論これは私は例の話しを、例話ですから、ね、まあ笑い話的な話ですけども。
そのそこにあるもの私共がこうやって頂いて大抵深く分からせて頂きよるごたるけれども、ね、ただその程度で私共が頂き止めておるのではなかろうか。もうそれで良いと、もう足りたように思うておるのではなかろうか。それで分かった様に思うてるんではなかろうか。ね、おそらく合楽の皆さんがですね、屑の子ほど可愛いと仰るけんで、なら屑の子にならなんち言う人は恐らくあるますまいけれどもです、ね。
まあ、笑い話的に言うならば、屑の子ほど可愛いと言いなさるけん、屑の子になろうと言うような人はありますけれども、それに類似したですね、言うような事がです、深く分からないと私共がそれを気がつかんでおるような事が沢山ありはしないだろうかという事なんです。例えば昨日の御理解第5節から頂くところでもそうでしょうが。片便の願い捨て。今までは片便の願い捨て。
金光様の信心というものが生まれる前は皆が片便の願い捨てであったけれども、金光様の信心がこの世に出現して、ね、教祖様がお出ましになられてから、私共は片便の願い捨てではない、ね。いわば願うてまたそれを頂いて帰って頂きよるように思うとったんですけれども、昨日の御理解を頂くと、これは私共金光様の御信心頂いておる者でも、片便の願い捨て的なおかげしか頂いていなかったんだ。
そこだけしか分かっていなかったんだというように、なってくるんですから。やっぱり、そこんところを本当にその、言外の言と言うかね、行と行の間中を分からせてもらわなければならないという事が分かるでしょうが。私今朝、控えに出てくるまで、あの長い廊下をずっと渉って来る間に頂きます事がですね。サラリン、サラサラというかね。何かテレビで言ってるから確かに聞いた事がある。
繰り返し繰り返し、いわゆる私の信心に響いて来るんですよ。それで、控えにちょうど時間がありますから。はあ、今日頂いたサラリン、サラサラという事はどういう事だろうか。あれは何か便秘の薬の名前らしいですね、サラリンというのは。お互いがですね、頂く事だけは頂いて、それが通じよらんのじゃなかろうか。教えを頂くだけは頂きよるけれども、それが、いわばサラサラと通じよらんのではなかろうか。
いわゆる秘結しとるのだ、ね。ほれで私、その事を控えで思わせてもらいよったら、佐良林と今度は字で頂いた。さは、佐賀の佐ですね。らは、良という字、奈良のらですね。りんという字は林という字。ね、佐はまあ、合楽的という事でしょうね、人偏に左。良は良しという、良という。りんは林、林という字は木が二つ書いてある。心が二つ、ね。木は心という風にもじると、心が二つという事になりますよね。
木という字を二つ並べて書いてある。良これは良いという事、ね。良好のりょうですね。いわゆる二つの心がですね、二つの心がいわばサラサラになって行きよらん。神様の心と私共の心がね、交流しよらん。ね、そして「 」昨日の御理解になる。こちらの願いだけは確かにしよるけれども、むこうの方からのが一つも通うて来よらん、交流しよらん。だからサラサラになっていかんと。ね、
いわゆるそこに、いわゆる「同期す?」の、いわゆる秘結の元がある訳なんです。秘結しよる。どうぞ、どうぞと言うてこちらがお願いしよるとだけは神様に通いよる。ね。けれども、神様の仰る事がこちらの方へ通うて来よらんから、結局片便の願い捨てになってしまいよる。そすと金光様信心しよったっちゃ、片便の願い捨てという事になる訳なんですね。そうでしょうが、お取次ぎでお願いをしよる。
確かに神様は聞いて下さっとる、けれどもおかげの方が返って来ない。なぜか、ね。良になって行きよらん、良しになって行きよらん。それを本当に頂いて行きよらん。そこに私は秘結の原因がある事をお互いが知らにゃいけません。思いが通いよるじゃろうか、神様には通いよるじゃろうか、聞いて下さりよるじゃろうか。もう間違いなしに聞いては下さりよるんじゃけれども。
神様から送ってくださるおかげが何処辺かで、いわば滞りになって行きよる。それが出てこない秘訣のもとになって行きよる、ね。お互いどうでもひとつ、それこそサラサラと、ね。もう、それこそサラリン、サラサラと有り難いおかげが、ね、気分よう気持ちよう頂けてくるようなおかげを頂きたいと思う、ね。そのおかげが滞る、ね。そこで分からせて頂く事はです。私達がです、ね、
御理解の真意とでも言うか、言葉には出ていないけども、言葉の他の言葉。その中の心というものを頂きよる、それを頂かない、それを行じない、ね。そこで、そこんところを私は頂いて行く素直さ。こういう事がありますね、親がどう思うとる事は私にはよう手に取るように分かるばってん、そんな訳には行かんち言う。親先生が私どんに何を求めてござるかっちゃ、よう分かる、もう手に取るごと分かるばってん。
そげん親先生の思うてござるようにばっかりはいかん。ね、親がこげんすりゃ喜ぶ事は分かっとるけれども、ね。親が求めておるものは、よう分かっとるけれども、そんな訳にはいかん。そういうような事で親子の間が通わなくなってくる、ね。親の思いが分かり、子供の思いが分かり、ね。そこんところをです、ね、その思いに添わせて頂こうと一生懸命、努力し合うところからです、ね、
いわゆるサラリン、さらさらという事になる。二つの心が溶け合うて行く、付き合うだけじゃなくて交流してくる。だから私どもがいかに素直にね、御教えを頂かせてもらわねばならんかという事が分かります、ね。いわゆる親の思いが分かりたい、親の思いが分かりたい、ね、神様の思いが分かりたい、分からせて頂いたら、はあそうですかと言うてそれを素直に受けて立たせてもらう信心が必要である。ね、
親が右と思うとる事は分かっとるばってん、親が右と思うなら、わざとでん左にするという人がある。ね、これではいよいよ秘結の元をつくって行く訳でございますよ。いよいよ、ね、二つの心が交流する。これは人間関係の場合でも同じ、神様と私どもの関係の場合においても然りです。そういう頂きこそがです、頂き方こそがですね、願う氏子におかげを授け理解申して聞かせと言うておられるが。
私共がその理解に御の字をつけて、「御」理解、御理解として頂かせてもらう。はあとこう合掌して、そうですかと、有り難うございますと御の字をつけて頂くという心がなからなければいけません。それは私には、ね、神様の言うて下さる事は、親の言う事は反対にしか見えません、聞こえませんけれども、親様の仰ることじゃからと言うて辛抱して行きよりましたら、ね、
欲しい物もなくなり、思う事もなくなるというような三代様のあのお心の状態というものまでが分かってくるようになる。そこにあの信心させて頂く者に、その素直な心が要求されるのはそういう訳なの。ね、なるほどもっともな事ばっかりじゃないという事なんです。私には分からん、私には合点がいかん。親先生が言わっしゃる事が私には分からん。ね、神様の心が分からん、ね。
分からんからと言うて、それをそのままにしたんでは秘結の元になる。ね、親が寒中に竹の子が食べたいと言うなら、この寒中に竹の子があるもんかと言わずに、庭に下りてやはり鍬を持たせてもらう。私はそういう姿勢が信心にはどうでも必要、ね。そこから通うてくる、本当の親の心が分かってくる。ははあ、親の思いはここにあったんじゃなあという事が分かって来るようにです。ね、
ですから今日、今日の子供の中に屑の子があれば可愛いのが親の心じゃと。不信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよという、この御理解第8節のこの解釈ではなくて、ね。この、ここのところ、表に出ておる文字だけでは非常に間違えやすい。皆さんは間違えませんですよね。ただ、南無阿弥陀仏だけ言うときゃ、ね、皆も浄土にお迎えを頂き、頂く事ができる。
南無阿弥陀仏、即そこに助かりがあると親鸞は説いたけれども、ただ言葉に南無阿弥陀仏を言うただけではない、南無阿弥陀仏という、いわゆる、ね。阿弥陀仏に帰依するという、南無するという、その帰依があるから助かるのだ、という例えばこれはまあ、もっと深い意味のある事でしょうけれどもです、その深い事が分かって南無阿弥陀仏、そこにお救いがあるのだと。気鋭しきった姿の中に助かりがあるのだと。
それを間違えておる、アンタどんがごと、そげん難しい事言わんでん、ね。仏様の道は、南無阿弥陀仏だけ言うときゃ助かる。ね、善人が助かっとるとじゃけん、悪人はなお更助かると上人様は言うてござるから、という風な頂き方をしたんでは始まらないです。そんな極端な事が皆さんにはないけれども、極端な事はないけども、よくよく分からせて頂くと、そういうような事が、いわばある。
それを、私はある意味合いで、信心がドライになって来たと言うのです。ね、もう自分で割り切ってしまうのです、だから深さに触れる事が出けんのです。ね、本気で私共分かってん分からんなり、そこんところを行じさせてもらうところからです、ね、先生昨日のあの御理解の芯はどこにあったでしょうか、と。私は昨日こう行じたけれども、こういう答えしか出て来なかったが、頂き違えておったでしょうかというような質問になってくる訳なんです、ね。
今日はいわゆるその行と行との間中を分からせて頂こうと、ね。そしてそれを行の上に現して行こうと。ね、片便の願い捨てにしてはならない。そこから、ね、「 」、二つの心が通うようになる。そういうおかげを頂いていこう、ね、いわば言外の言。言葉の他の言葉を分からせて頂くところに理解、御理解がある。ね、その御理解を愈々もっと、もっと、深く強く分からせて頂いて、愈々私共が日々気持よう大小便に行かせて頂いて、お通じのある時の体の調子というのはもう本当に有り難い。
それが、2日滞り、3日滞りしていくところに、体のそこここに痛い痒いが起こってくるようにです、本当に通じの良い、ね。それこそ佐良林、さらさらです。ね、サラサラとした気分、サラサラとした心にならせて頂いて、おかげがサラサラと頂けて、ね。御用がサラサラと出けて、ね、何のしこりもない、コリもない。そういう、私はおかげを頂かせて頂きたいという風に思います。
どうぞ。